平成20年7月26日 500円の会〜One Coin Fund〜

第10回定例会

フィリピンエクスポージャー報告会






第10回目の定例会では、5月1日〜5月7日に行われたフィリピンエクスポージャーについての報告会を行いました。
報告会は、500円の会スタッフのそうえいとあきこさん、一緒にエクスポージャーに参加したりこが、 フィリピンの現状の話しをしてくれました。
そして今回のエクスポージャーでは今までに集まった賛同金の一部となる、8万円を初めて寄付してきました!!

以下の文章はそうえいにかいてもらいました。

支援とは何か
遊ぶ子供たち
日々マスメディアで流されている世界中の貧困状況。
私はテレビから流れる映像を見ながら、貧困の中で生きる人々の生活と自分の日常の生活とを照らし合わせます。
いつも感じるのは罪悪感。自分には何かできるはずなのに、見て見ぬ振りをして何もしていない自分がいます。
毎日忙しい生活に追われ、結局は遠い地で困っている人々よりも、自分のことを考えることで精一杯になっています。
そんな罪悪感を拭い取るような気持ちで、私は貧困問題を考え始めました。
私にとっての今回の旅の目的は、貧困の現状を知ること、そして、現地で求められている支援とは何なのかを明確にすることでした。
衣食住の整えられた環境の中に生きている人間にとって、貧困はとても悲しい現実として目に映ります。 彼らがどれだけ苦しんでいるのか、困っているのか、支援を求めているのか、全ては私達にとって想像の世界です。
だからこそ現状をこの目でみて知ることが第一に必要であったのです。

水の上に作られた家
フィリピンに到着して私達が訪れたのは主に三カ所です。
Quezon CityのMalaya 地区と、漁港のNavotas 地域、そしてTalime島です。いずれも貧困地域といわれるところです。
現地で最も強く感じたことは、国民の格差でした。
綺麗な身なりをして携帯電話を片手にショッピングモール街を歩く人々がいる一方で、 水上にひしめき合うようにがれきを組み立てて家を建て、そこで多くの人々が生活をしています。
私達は旅の半分をMalaya 地区の若者達と共に行動しました。
彼らは最下層よりも恐らく少し上の、下層から中層の間の人々であると思われました。
彼らの身なりはある程度綺麗に着飾ってあり、日本から来た私達を出迎える為に精一杯のお洒落をしてきたと思われる装いでした。
彼らは家族と共に小さな路上に建てた簡単な家で生活をしています。子供達全員が奨学金を受けられるわけではありません。 一世帯にせいぜい一人が受けられればいい方です。
教育が満足に行き届いてはいないとしても、しかし家族と共に衣食住の生活ができている点で、彼らは恵まれているといえるでしょう。

参加者
このMalaya 地区の若者達と共に私達は更に貧しい、最下層の地域Navotas を訪れ、フィリピンの貧困を目の当たりにしました。
人々は橋の下や道路のわきなど、本来住居を建てることを禁じられている場所に簡素な家を建ててひっそりと生活をしています。 国から立退きを言い渡されれば、その時点で彼らは国から命令されるままに立ち退くしか術はありません。 ゴミを売って得たわずかな収益を基に生活をしている彼らにとっては、住居や衣服のみならず、 命を繋ぎ止める一日の食べ物すら得られる保障は全くありません。
病気にかかれば、それは死を意味します。
共に訪れたMalaya 地区の若者達も、その現実にショックを受け同じフィリピン人の現状に胸を痛めていました。
そんなフィリピン同士の格差を見て私はさらに悲しくなりました。
国内にこれほどの格差を生じさせ、国民の生命をも保障せず、 むしろ彼らを追放するかのような態度を示すフィリピン政府に対して不信を抱かずにはいられません。
元気な子供たち 救いは、私達の想像とは裏腹に、Navotasの人々はとても明るい笑顔で私達を出迎えてくれたことでした。
彼らの笑顔の裏にどのような苦悩が隠されているのかまでは私達には分からないけれども・・・。


貧困を目の当たりにしたうえで、私は彼らが必要としている支援とは何なのかを考えました。
貧困の度合いは地域によって様々です。現地の人々が求めているものとは何なのか。 一人一人にとって必要なこととは何なのか。
支援をしようとする側の客観的な目線で現状を見たとき、当然のように衣食住を満たされない最も貧しい地域の人々に対して、 少しでも衣食住の足しになるような支援をしたいという想いが湧き上がります。
しかし、支援をする側の目線ではなく、現地の目線で考えたとき、 結局のところ現地の人々にとって「これが必要だ」という決定的なものはないような気がしました。
彼らにとっては今ある生活が当たり前の生活なのだから。
今、与えられたこの環境の中でいかに生きるか、それだけなのです。
最も貧しい地域よりもある程度下層から中層の間の生活を送る人々の方が、より知らない世界に触れる場面が多いため、 自分の生活と他者の生活とを比較し、知らない世界への憧れを持ち、 支援を「必要とする・求める」感情が生まれるのではないでしょうか。
支援とは一体何なのだろう。
私は何をしたいのだろう。
人間にとって幸せとは何だろう。
旅をしながら様々なことを考えさせられました。
参加者たちと生徒
そして一つ気付いたことがあります。
「誰もが人間としてよりよく生きること」、やはりこれが私の中で最も根本にある願いだったのです。
いくら生活が貧しくても、そこに生きる人々が幸せそうに生活をしていれば、敢えて金銭的な支援をする必要なんて全くないのです。
それは「支援」ではなく「押し付け」になってしまいます。
「支援」とはあくまでも方法論であり、支援をする側にとっても受ける側にとっても、 その先にはもっと重要なよりよく生きるための「希望」があります。そのために様々な方法を使い工夫して生きています。 支援という行為ではなく、その先にある希望が何なのかを見極めることが大切なのでしょう。
「人間としてよりよく生きる」生き方には人それぞれの意見があると思いますが、私の個人的な意見を述べると、 金銭的に満たされた状態がよりよく生きる条件だとは言い切れないと思います。 金銭的に満たされた状態を望むなら、彼らが向かう未来は、日本と同じような先進国に発展することです。
しかしそこに人間の幸せが全て組み込まれているとは私はとても思えません。
それを証明してくれたのが、Talime島のSan.Damiano communityでした。
この共同体の創立者であるニッグの言葉はこうです。
「貧困の中にこそ、本当の幸せがある」
私にとって非常に印象的な言葉でした。
彼は貧困を肯定しているわけではありません。貧困というのは確かに辛く厳しい状況です。 けれどもそれを通して感じ得たもの、例えば家族や仲間の絆、自然の恵み、与えられた命への感謝、 神への信頼などが心の豊かさを作り出すということを彼は意味していたと思います。
彼らの貧しいながらもその貧しさを受け入れた生活のスタイルは、私が経験したことのないような心の豊かさのある世界でした。 金銭的な支援は、金銭的な豊かさのある未来を作るにはいいですが、本当の心の豊かさを作ることはできません。
本当の心の豊かさとは、自分に与えられた命を、 そして、一人で生きているのではなく様々な恵みによって生かされていることを感じることであると私は思いました。
地理的には遠い国同士の人間ですが、フィリピン現地の人々と日本や韓国にいる私達とが共に生きているという意識をもち、 人間同士の繋がりを築くことが心の豊かさをより深めてくれるはずです。
それが「人間としてよりよく生きる」ための術だと私は感じました。
その道の途中で、もし問題や壁にあたったならば、共に考え、何が必要なのかを共に見つけること、 それが支援というものなのだと気づかされたのです。

家
壊れてしまいそうな家

下には山ほどのゴミ
下には山ほどのゴミが…

屋台
屋台

学校
学校

変わったトラック
変わったトラック

すごい人数の乗った船
すごい人数の乗った船

水遊ぶをする子供たち
水遊びをする子供たち

参加者
参加者











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