カンボジアでの大量虐殺





1975年4月から3年8ヶ月間カンボジアを支配したポル・ポト政権。

市の住民を農村へ強制移住させ、全国で虐殺が繰り返されました。

さらに、市場や通貨の廃止、学校教育の廃止、宗教活動の禁止、人民公社による集団生活、親と子の隔離など、極端な共産主義化を行いました。

知識人、伝統文化継承者、教師などは「反革命的な者」と見なして次々と殺害。

後には、クメール・ルージュ(カンボジアにかつて存在した共産主義政党、1980年以降ポル・ポト派とも言われる。1975-1979年に起こした虐殺をさす場合もある )の地方機関や事業所の幹部までもが、「反乱の恐れ有り」として殺害されていきました。





トゥールスレン虐殺博物館(政治犯収容所 S21)



2年9ヶ月の間に14,000〜20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8名のみ(これまでは7人とされていたが、2007年、別の刑務所に移送されたため生き残った女性一名が名乗り出た)。

クメール・ルージュは中国以外の国に対しては一切秘密主義を貫いていたため、そうした政治犯収容所の存在は国外には知られていませんでした。

1979年1月、ベトナム軍がプノンペンを制圧したが、クメール・ルージュは全員撤退・逃亡した後で、翌日ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この収容所を発見。

尋問室ではクメール・ルージュが撤退間際に殺害した14名遺体、収容所全体では50名程度の遺体が見つかり、また膨大な収容・処刑記録の文書がありました。

現在は、発見時のままに保存されている拷問室、1,000名ほどの収容者(一部は少年・少女看守)の写真、生還した画家が描いた拷問の様子などを展示しています。



トゥールスレン虐殺博物館
拷問が行われたトゥールスレン虐殺博物館

拷問と虐殺の際に使われていた武器
拷問と虐殺の際に使われていた武器





キリングフィールド





ポル・ポト支配下のカンボジアで、大量虐殺が行われた刑場跡の俗称。

最も有名なのが、トゥールスレンに付属する刑場として作られた、首都プノンペンから12kmのチュンエク村にあるキリングフィールドで、現在遺骨が安置された慰霊塔が建てられています。

頭部は年齢ごとに分けられ、射殺や撲殺された人が多いと言う事です。

中には子供・幼児の遺骨もあり、親への見せしめのために、目の前で子供の頭部を木の幹へ叩きつけ、殺したことも多かったそうです。



キリングフィールド
キリングフィールド  頭蓋骨が収められている慰霊塔

マスグレーブ
マスグレーブ  死体が埋められていた場所

キリングツリー
キリングツリ-  子供を殺すために使われていた木







500円の会〜One Coin Fund〜第2回定例会

定例会

500円の会〜One Coin Fund〜TOP












アクセス解析出会い